Page 37 : 思い





「で、旅はどうなんだ」
 圭は一度素振りを止め、クロに振り返った。話題が変わったことにクロは内心安堵する。その後の一瞬に頭の中を旅の出来事が駆け巡ったがそれを細かく報告する気にもなれず、口を開いて出てきたのは本当に簡潔でほぼ答えになっていない返答だった。
「三年あればそこそこいろんな所へ行くさ」
 圭は笑い声をあげながらクロの前に腰を下ろす。
「だよな。でもよく三年も体がもったよなあ」
「旅の途中で医療関係の知り合いができてな。有難く生き延びさせてもらった」
 へえ、と圭は声を漏らす。
「後盾がある、というわけか」
「……まあ、そういうわけかな」
 後盾。
 クロは心の中でその言葉を繰り返す。
 彼が旅を続けられているのはオーバン夫婦やアランの助けあってこそである。その重要性は非常に大きく、クロにとってはその単語で片付けられる程のものではない。なにしろ命を握られているようなものなのだから。そういったこともそこに至る過程も圭は知らないんだと、クロはちらりと実感する。圭の三年間の生き様をクロが知らないように、圭もクロの三年間の苦労を知らない。ぼんやりとしか考えていなかった白黒の現実が、ふと目の前に色味を増して現れたようだった。
 結果、本題を切り出すことへの躊躇いは一層深いものとなる。
 言葉を探すように視線を泳がせてから圭はクロの顔色をうかがいまた一つ質問を投げかける。
「……探し人は見つかったのか」
 不必要な程に小さな声で圭は尋ねる。即座にクロは首を横に振る。そうか、と圭は声のトーンを落とす。
「誰って言ったっけ。ほら、名前」
「零。笹波零」
 先程の返事と左程変わらぬ速さの反射でクロは返す。咄嗟に反応してからクロはまた一つ沈む。彼は気分の変化が表に出やすいのかはたまた圭が敏感なのか、圭はすぐにその陰りに気付いて言葉を失った。
 薄い膜のような雲が太陽の真下を通過し少しだけ陽向が暗くなる。その後また元の眩しさを取り戻した頃に、クロは一言吐き出した。
 ――見つかってたら、こんな旅続けてないよ。
 呟きと同義と取れる発言に、圭は目を細めて口を噤むしかなかった。


 *


 よく好んで日陰で休憩しているブラッキーが、今日は太陽直下のログハウスの屋根のてっぺんに凛と立っていた。吹き抜ける風は強いが細い脚はしっかりと地についており、ぐらつく素振りを微塵も見せない。三六〇度にリコリスの風景を携え、何かを注視するわけでもなく虚空をぼんやりと眺めているようだった。
 何故その場所にいるのか、何を考えているのか、それを理解する術は無い。一人になりたかったのか、高いところから景色を見たかったのか、物思いにふけっているのか、今は亡き人へ思いを馳せているのか。確定できる要素は何もなく、前触れもなく訪れただけだ。
 結局昼食の時間にクロと圭が帰ってくることはなく、先にラーナー達は昼食を済ませていた。エーフィやブラッキーもお裾分けを貰い、腹は十分満ちている頃合いだ。エーフィは眠気に負けたのかすぐに床に寝そべり、ラーナーは相変わらず溶け込めないようでいたものの、積極的に努力はしているようだった。
 と、噂をすればといったところか。
 ブラッキーは耳をぴくりと動かし前へと数歩進む。ちらと屋根から見下ろすと自分の名を呼ぶラーナーの姿があった。その隣には相棒の姿もある。
 敏感なエーフィはラーナーより先にぱっと顔を上げる。その様子に気が付いたラーナーが誘導されるように屋根の方を見上げる。高く昇る太陽の光を手で遮ってようやくブラッキーを視界に入れ、目を丸くする。
「ブラッキー、そんなところにいたの? 危ないよ!」
 心配そうに声をあげる。どうやって行ったんだろうとその後続く。
 しかし身軽で運動神経の良いブラッキーにとっては危険なことではない。平然とした様子にラーナーは小さな溜息をついた後、笑みを浮かべた。表情の変化にブラッキーは首をかしげて彼女の言葉を待つ。
「ね、ちょっと散歩に行こうよ。近くに大きな向日葵畑があったんだ」


 ブラッキーは彼女の誘いにひょいひょいと身軽に屋根から降りていき、一行の散歩はすぐに始まりまたすぐに目的地に辿り着く。歩き始めて五分と経っていない。道路から掘り下げられて作られた場所に広がる花畑。太陽に向かって堂々と花開いている。
「ほんとすごいな! これ全部向日葵だもんね!」
 ラーナーの視界は黄色に塗りつぶされていた。
 一方のエーフィとブラッキーは花に対して興味があるというわけではないようで、視線が様々なところを行き交っている。
「お父さんとお母さんが好きだったんだ、向日葵。こんな所で偶然会うなんてさ」
 神妙な顔つきで話すラーナーになにか声をかけたがるように、二匹はちらと視線を上げた。
 その言葉を最後にしばらく静寂が続く。
 彼女は道路から足を一歩踏み出し花が手に届く位置までやってくる。同じ高さの地点に立ってみると、ラーナーより数センチ低い背丈のものが森のように広がっている。
 咲き乱れる太陽による圧倒。その黄金の輝きは少し眩しすぎる程だ。
「……あたしさ」
 ラーナーは言おうとしてすぐに口を紡ぎ、しかしまた開く。
「あたし、何も知らないんだよね」
 彼女の後方に立つ二匹のポケモンは、黙ってその話に耳を傾ける。
「お母さんのことなんて殆ど覚えてない。お父さんの思い出だってそんなに多くない。仕事で出てることが多かったし。ずっと前さ、セルドに聞かれたことあるんだ。なんで向日葵が好きだったのって。あたし、わかんないとしか言えなかったんだよね。実際、分からなかったから」
 遡って何年前の話だったろうか、ふと何気なく出てきた弟の疑問にラーナーは薄く笑った。
 これ以上聞かないでほしいとその直後に心を走った感情が表に出たのか、セルドはそれ以上詮索しなかった。親を早くに欠いた姉弟にとって、親に関する話は一種のタブーとも言えたのだった。
 今、独りになったラーナーに重く圧し掛かる。
「クロの方が、多く知っていたりしてね」
 はは、と小さく笑った。
 二匹は肯定も否定もしない。
 少し強い風が音を立てて通り過ぎた後に、でも、とラーナー切り出す。弱々しかった瞳に小さな強い光が点いた。
「あたし、もっと知りたい」
 一呼吸置いて向日葵から目を離して、負けず劣らず鮮やかな蒼さを放つ空を見据える。
 空気が変わったことにブラッキーはにっと口元を上げて、今の主の顔を見上げる。彼女の手が自然と握りしめられる。
「前にクロには知らない方が良いこともあるって言われたけど、あたしが知るべきこと、まだクロは持ってるはずなんだ。トレアスではつい熱くなったけど……クロの調子も悪かったし、落ち着いて話したらもう少し分かりあえる……きっと」
 最後に納得させるように頷く。トレアスでの喧嘩模様を思い出せば切り出すことに迷いが生じる。しかしクロはラーナーと旅を始めてすぐに黒の団について話そうとした前科もあり、また続きを語る気持ちもあるととれる発言をしている。まだ話せると彼が思っていることは残っているのだ。
 彼女はエーフィとブラッキーの方を振り返る。二匹は大きく首を縦に振ることでようやく応えた。












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